中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
日野・八王子の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
行けば武藏の八王子
機織の業の名にし負ふ
町の榮えぞ著き
さらに読みやすく!
行けば武蔵の八王子
機織の業の名にし負う
町の栄えぞ著き
さあ、歌ってみよう!
♪ゆーけばむさしの はちおうじー
♪はとりのわーざの なにしおうー
♪まーちのさかえぞ いちじるきー
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた
立川駅を出て、八王子方面へ
立川駅(東京都立川市)を過ぎると、歌詞にもある通り、
- 日野駅(東京都日野市)
- 豊田駅(東京都日野市豊田)
とすぎて、やがて八王子駅(東京都八王子市)へと至ります。
土方歳三の出身地・日野市

日野駅(東京都日野市)

日野駅(東京都日野市)
東京都日野市は、あの新撰組の「鬼の副長」と呼ばれた、土方歳三(ひじかた としぞう)の生まれた街でもあります。
新撰組とは?
新撰組とは、幕末の戊辰戦争のとき、明治の新政府軍に対して(北海道・函館に追い詰められるまで)最後まで戦った武士たちです。
「副長」とは、いわゆるナンバー2のことです。
新撰組のトップである「局長」は、近藤勇という人物です。
土方歳三からも敬愛された近藤勇でしたが、残念ながら東京の板橋で処刑されてしまいました。
北へ追い詰められた新撰組 函館で降伏
トップを失った土方歳三と新撰組は、追ってくる新政府軍から逃れて福島県の会津を経て北へ北へと逃げてゆきました。
やがて最後には、北海道の函館(当時は「箱館」)に追い詰められました。
しかしここで力尽き、最後まで新政府軍を苦しめ奮闘した土方歳三は、35歳にして銃弾に倒れてしまいます。
そして残りの新撰組も箱館の五稜郭にて降伏し、幕末の戊辰戦争は終了、明治維新の時代に入ってゆくのです。
新撰組と函館・五稜郭については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

豊田駅に到着
日野駅を過ぎると、歌詞にある通り、
- 豊田駅(東京都日野市豊田)
に着きます。

豊田駅(東京都日野市豊田)
車両基地存在のため、豊田始発・終着の列車が存在
豊田駅の近くには車両基地があるため、当駅を始発・終着とする列車がいくつか設定されています(たまに「豊田行き」の列車が来ることがある)。
つまり、東京・新宿方面から八王子・高尾方面へ行くときに豊田止まり(豊田行き)の列車に乗った場合は、豊田駅で列車を降りて高尾行きなどに乗り換える必要があるため、注意しましょう。
八王子駅に到着
豊田駅をも過ぎると、列車はやがて、
- 八王子駅(東京都八王子市)
に到着します。

八王子駅(東京都八王子市)
織物で栄えてきた、八王子市
東京都八王子市は、かつて養蚕や織物などで栄えた町であります。
また、東京都で二番目に、市政をひいた街でもあります。
「牛頭天王」に由来する地名
八王子とは、「牛頭天王」の言う神様の、八人の王子からその地名が由来しています。
「牛頭天王」とは?
「牛頭天王」とは、京都の八坂神社が、明治時代までは祇園社と名乗っていたときの、インドの神様です。
明治時代に、京都の「祇園社」は「八坂神社」へ
京都の祇園社は、明治時代に、日本が欧米列強に対抗するため「国家神道」を推し進めていたのでした。
そのとき、インド由来の「祇園社」「牛頭天王」は、これからの日本にふさわしくないということで、より日本的な「八坂神社」「スサノオ(須佐之男命)」に、社名と神様をそれぞれ改めています。
これは、インド由来の「牛頭天王」のイメージと、日本のオリジナルの神様である「スサノオ」のイメージが、最も近くかぶっていたからですね。
八王子の機織り
八王子では、歌詞にあるように「機織りはたおり」、つまり明治時代には
- 「織物」
- 「養蚕」
- 「桑」
で栄えてきました。
「機織りはたおり」とは、専用の機械を用いて織物を造ることです。
「織物」とは、生糸を縦と横に組み合わせて縫う、昔の日本の高級な和服のことをいいます。
「生糸」とは、織物を織るために必要な糸でのことであり、カイコという幼虫が生みだします。
「カイコ」とは、「生糸」を生み出す幼虫のことであり、桑という植物を食べて成長します。
「桑」とは、カイコが食べる餌(植物)のことです。
八王子は織物の生産で栄えてきた歴史があるため、桑都という風にも言われています。
明治時代の産業革命で発展
明治時代以降は「産業革命」によって織物の生産効率は向上し、より民間に浸透していくようになりました。
つまり産業革命では、機械などによって、それまでの手作業と比較して、より安く・大量に生産できるようになっていったのです。
明治時代の日本にとっては、
- いかに生糸や織物、をたくさん製造(大量生産)するか
- また、それらはいかに海外へたくさん売って(輸出して)、利益を上げるか
ということが、とても重要でした。
またそれが、国を挙げて行う国策でもありました。
欧米列強に「追いつけ追い越せ」といったムードでした。
そのため、当時の明治時代の日本の「殖産興業」において、「生糸」「養蚕」「織物」「輸出」はとても大事なことでありました。
八王子の生糸・織物を運んでいた「横浜線」
また八王子駅からは、南の横浜方面へ向かうために、横浜線という路線が出ています。
横浜線はかつて明治時代に、先述の八王子で造った織物や生糸などを、横浜まで運んで輸出するための路線でした。
ここでいう「横浜」とは、現代の桜木町駅(神奈川県横浜市)があるあたりです。
ここに、たくさんの「赤レンガ倉庫」がありますよね。
それは海外輸出するため一時的に(輸出する)生糸や織物などを蓄えておためのものだったのでした。
横浜赤レンガ倉庫などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

群馬県でも盛んだった養蚕・製糸業
こうした織物はもちろん八王子のみならず、関東地方では群馬県あたりでも、盛んに生産されていたものです。
鉄道唱歌でも、
- 群馬県伊勢崎市
- 群馬県桐生市
- 栃木県足利市
の養蚕や、茨城県結城市の紬などについては歌われていますね。
詳しくは、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください


群馬県の富岡製糸場
群馬県富岡市の富岡製糸場は、いわゆる「官営模範工場」とされていました。
官営模範工場とは、国が「この工場を見本として他の工場も真似しなさい」という、国が設立した、模範となるべき工場のことです。
富岡製糸場については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

八王子と群馬県・高崎を結ぶ、八高線
八王子市と群馬県高崎市を結ぶ路線が、「八高線」です。
- 八:八王子
- 高:高崎
八高線は恐らくですが、1930年代に
- 高崎~八王子~横浜
の区間におけるの生糸や織物の運搬を、「東京を経由せずに」運ぶためにできた路線だと考えられます。
なぜなら、当時は「満州事変」など、いつ海外と戦争が起きて、東京が壊滅的被害に遭ってもおかしくないという世の中だったからですね。
八高線については、以下の記事で解説していますので、ご覧ください。

次回は、高尾方面へ
次はいよいよ「(中央線における)東京の西端部」ともいうべき、高尾に向かってゆきます!
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